昔近所に住んでいたお兄さんが好きだった。よくある話かもしれない。小学校に上がったらしばらくは手を引いてくれた、優しいお兄さん。そんなお兄さんが中学生になった途端にグレてしまってショックを受けるという所までがセットなのだけれど。
早朝、続々と集まってくる仲間たちと作業内容の確認をしていると、にわかに賑やかな声で場が沸き立つ。
思わず、背の高い周りの人々に紛れるように縮こまった。
上井陽くん。私が昔好きだった近所のお兄さんにそっくりなのだ。もちろん、正真正銘別人である。しかし彼の声を聞くだけで、過去のことを思い出して逃げたくなってしまう。意識しまくりだ。
たとえまともにお話しできなくても、遠くから元気な姿を見てるだけで良い。陽くんは、そんな人。
するすると人混みを抜けて、輪の外へ。指定された場所に早く向かわなければと走っていると、後ろからついてくるような足音がする。
朝から汗をかくのは嫌だ。でも追われると逃げなければと思うのが人の性だ。
「ウェイウェイちょい待ち!」
「た、助けておまわりさーん!」
手を掴まれて、口をついて出た言葉。本当は分かってた。私の手首を掴んでる人が誰なのかって。
「残念、俺がおまわりさんです」
何故だか得意気に鼻を鳴らす陽くん。
私、何か落としただろうか。それとも、逃げられると追いたくなるのが人の性?
「あいさつは?」
「……へ」
「あいさつは明るいみんなのあいことば!って知んねえの?」
小学校の教室に貼ってあった標語みたいだ。
当たり前のことから逃げ出してきた自分が急に恥ずかしくなって、顔にじわじわ熱が集まっていくのを感じていた。
「あ……う、お、おはようございます」
彼の耳に届くくらいの声は、絞り出したつもりだ。でも陽くんからはただ「お、おう」とだけ返って来た。明るいみんなのあいことばって、陽くんが言ったのに。
漂う気まずい空気に堪えきれず、遅刻したら怒られちゃうからとその場を後にした。
陽くんは、多分もう追ってこない。
「……ィヨッシャー!!あいさつゲットウェエエイ!」
背後から聞こえてくる歓喜の雄叫びは、聞かなかったことにした方が良いのか、それとも期待して良いのか。
明日もちゃんと陽くんにあいさつしたいなと、跳ねるばかりの心臓を押さえた。
2021.5.6
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